2008年09月13日

(3)作られた歴史

前回わたしは、「コーチング」はスポーツとはまったく関係のない分野、業界から発想されたものあり、「コーチング」と名付けたが故に、スポーツと関係のある歴史を「後から」創作したのだと述べました。

その根拠は、穴だらけの年表にあります。
日本の古代史を再構築しているわけではありません。
たった20年ほど前の出来事を整理しているだけです。
それなのにこの驚くほど少ない情報量は何を意味するのでしょう?
わたしはこれこそが「作られた歴史」の動かしがたい証拠であると考えます。

さて、こんな架空の物語を思い浮かべてください。
これはあくまでわたしの想像です。
それは、現在のコーチング技法をビジネスに持ち込んだ人物がいたとして・・・の架空の会話です。

「これ、使えるよね」
「うん、使える。きっと流行る。○○に取って代われると思う」
「では何と名付けよう」
「『双方向的コミュニケーション・スキル』ってのは?」
「・・・なんか流行らなそうだなあ(苦笑) 」
「『能動的自己実現会話術』とか?」
「それ、怪しい自己啓発セミナーみたいだよ」
「う〜ん、困ったなあ。自己啓発セミナー屋には、嗅ぎつかれないようにしないと大変だ」
「ね、あれがいいんじゃない?最近、会議があったじゃん、有名なスポーツのコーチが集まってさ」
「あ〜あったね〜」
「だからそれだよ。『コーチ』」
「コーチ?」
「そう、提供する僕らがコーチで、行うのがコーチングなんだ。なんか、選手に寄り添いながらコールを目指すって、イメージよくない? 」
「いい、いい! 」
「『コーチはクライアントに寄り添い、クライアントが本来持っている能力や才能を開花させるお手伝いをします』いいじゃん!」
「おー、マラソンの伴走のようなイメージだね」
「でしょー? 」
「よし、これにするか!あ、でも・・・ 」
「どうしたの? 」
「『コーチ』では、パテント取れないぞ。あまりに一般的すぎる」
「それは仕方ないなあ。確かにパテント収入が無いのは残念だけど、知られている言葉を活用することで、逆に怪しいイメージは持たれないだろ。それと、僕たちがやろうとしていることはいわば『コーチ』と言う言葉のパラダイム・シフト、ブレーク・スルーなのだから、インパクトはかなりあると思うよ。逆に、スポーツのコーチングが源流だと思わせておけば、実は○○を参考にしたとか、△△が基本です、なんて言わなくても済むじゃん。これ、かなり大きいと思うよ」
「そうだね。○○や△△のことは内緒にしておかないとね・・・」
(以上、全て創作であり、現実の人物、団体とは関係ありません)


この架空の物語を、どう読まれましたか?
わたしはこう考えます。
コーチングとは「クライアント(依頼者)の自己実現をサポートするコミュニケーション話法」です。
これは誰もが否定しない。
しかしスポーツとはまったくの無関係な成り立ち、理論を有している。

つまり「スポーツから派生した」という歴史は、スポーツとの近似性を狙った戦略なのです。
コーチングと名付けることで社会への浸透性を計った戦略、そういう戦略としてのネーミングが「コーチ」「コーチング」なのだと考えます。


すでに存在した「コーチ」という単語を利用することを思いついて、それから隙間を埋めるために「コーチ」の語源や歴史を調べたのではないか?
そう考えた方が辻褄が合うほど、上記の年表は内容が薄いのです。
わたしには、コーチとビジネスを結びつけた「古い」資料を見つけるために、必死に図書館通いをした「誰か」の姿が目に浮かびます。

そして、この空白の10年間は、スポーツコーチングではなく、まったく別の分野のある理論、技法が注目され始めた時期でもあります。
もしかして「そのこと」をどうしても隠したいのではないか?
「コーチング」がスポーツから発展したという歴史を作るために邪魔だから。

もしかすると、今となってはこの問題はどうでもいいことなのかもしれません。
もうすっかりコーチングは浸透したのだから。

しかしそれでもここをはっきりさせる必要があるとわたしは考えます。
何故か?
スポーツがその源泉であると公言している限り、コーチングの本質が見えてこないからです。
それともう一つ、スポーツを源流にしようとするが故に、コーチング理論が構築できないという矛盾です。

「コーチングの理論ならあるのではないか?」
とおっしゃる方もいらっしゃるかと存じます。
しかしどうもそれも疑わしい。
が、この件につきましては、歴史の検証が終わった後に展開します。
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